2. 京都、彩と実行
夏の京都はとても暑い。
しかし、それを感じさせない空間がそこにはあった。
『緋上』という表札のかかった純日本家屋、『赤家』の本家である。
「俺、実行ですけど…彩に会わせてくれる?」
「わかりました」
家人に通されて屋敷の奥へと足を進める。
勝手知ったる我が家…とまではいかなくても、この屋敷を実行は十分に知っている。
案内は必要なかった。
何故なら目指す先は決まっていたから――。
「彩!」
勢いよく襖障子を開け、部屋の主であるその人物に
飛びつくように背中から抱きしめた。
「…実行か?遅いぞ、それから、この手を…」
彩という人物は実行の腕を退かそうとするが、
ため息をついて、そのまま抱きしめられた状態でいてやる。
「会いたかった…やっぱ、彩が居らなあかん。
俺が俺である為には、彩が必要なんや…」
「甘えるな。いいか、お前は大丈夫だ。私が居なくても、その事に慣れろ。
お前はもう、『独り』じゃない…そうだろ?」
「うん…」
実行は、ゆっくりと腕を解く。
そして、彩から少し離れた位置に腰を下ろし、正面に向き直って彩の方を見た。
「なぁ…仕事、まけてくれへん?」
「ダメだ」
「ちぇっ…」
それを見て彩はわずかに微笑み、こう言った。
「上手くやれば5日の仕事だ。全て片付けたら褒美をやるぞ?」
「えっ?」
「この髪を解きたいのだろう?」
実行の心は大きく揺れた。こんなチャンスは二度と無いかもしれない。
彩が髪を解いてくれる、それは実行にとってはとても嬉しい事なのだ。
「やる!やります!!力の限りやらせてもらいます!」
「まぁ、せいぜい頑張る事だ」
「おぅよ!」
実行は、すっくと立ち上がった。
「…と、その前に…やっぱり、ちょっとだけ力貸して」
「おいっ!」
実行は再び彩を抱きしめた。
彩の長い髪が指に絡む。
さらりとしたその髪は長く、そして白い。
着ている着物も祭衣なので白だ。
黒髪に黒のTシャツ、Gパンの実行とは対照的であった。
「やっぱり、ここが一番綺麗だ。東京は汚れてる。
どこも、多分同じなんだろうけど…。
彩の、周りに持ってる空気だけは…『穢れ』が無い、純粋な空間なんだなって思うよ。
だから、俺にそれを分けて…」
「ここが清浄なのは、当たり前。外は穢れている…。
だが、実行。お前の魂はまだ穢れてはいないぞ?
私が言うのだ、安心しろ…。だから、もう行け。
お前が穢れても、いくらでも私が祓ってやる」
「そりゃ、有り難い。じゃあ、頑張って穢れの中に飛び込んできますか〜!」
少し、名残惜しそうに彩を解放した。
そして、キリッとした表情になって部屋を出た。
それを見送る彩は、どこか嬉しそうな顔をしていた。
「彩主、あの男は帰られたのですか?」
「あぁ、仕事に出かけた。これも修行の一つ…
実行は、力の使い方は覚えたが、まだ精神は鍛えられていない。
私に縋っているうちは、外の世界は苦痛なのだろう…。
あやつが外の世界に解け込めるようになれば、
私が居なくなっても、生きていける…」
彩は切なそうに目を細めた。
「私を悲しむ人間は、那智一人で十分だ…。
誰からも、必要とされない存在になれれば…
『その時』が来ても、私は冷静に運命を受け入れられる…」
袖口で彩は顔を隠した。見られるわけにはいかない。
――涙なんて、彩には必要の無いものだったから…。